Message

代表の想い

  • Message.1

    住宅業界について

    • 安くて不安、高すぎて不満。

      よくお電話で当社へお問い合わせくださる方で「おたくは坪いくらで家を建てるの?」とご質問される方がいらっしゃいます。
      「どのような家をお考えですか?」「34坪ぐらいのふつうの家です」「デザインや設備・仕様にもよりますが、50万円台からですね」
      「高いわねー、ガチャ、ツーツーツー」。
      たぶん坪25万円台で建てるというローコスト住宅の広告を見てお電話されてきたのだと思います。あまりに安い価格に不安を抱いたのでしょう。
      大手ハウスメーカーで建てた家のリフォームを請け負った時のことです。
      壁をめくると「へー、壁の中はこうなっているのか。初めて見たけど何か弱々しく、チャチな構造やな。坪70万円以上もしたのに・・・」私は絶句しました。
      数千万円もする買い物の中身を知らないなんて。そのお客様が言うには、プレハブなので工期はものすごく短かったそうです。
      構造を見ることもなくすぐに完成、そして引き渡しだったそうです。
      ハウスメーカーの家は値段が高い、そんなことは私も知っています。しかし、その理由は家を見る限り理解できません。
      以前飛び込みで来たお客さまが、34坪の家を2,600万円で契約したが御社ではどうなのかと聞かれました。
      概算で見積もると当社では、コミコミ1,980万円(税、付帯工事、建築の諸経費込み)で建てることができますよと言うと、「そうですか」と落胆されて帰って行かれました。

    • チラシやテレビCMを信じていいのか?

      「網戸はオプションです」「建築確認申請の費用は別になっております」「収納の棚も別です」「足場などの仮設設備、屋外の給排水工事や電気の引き込み工事も別」。
      この広告の価格では、家が建たないのは誰の目にも明らかです。
      単なるローコスト住宅のカラクリは、どうしても消費者の期待を裏切ってしまいます。
      オプション工事の利益率の高さでローコスト住宅会社は、儲けて高いロイヤリティーを払ったりモデルハウスの建築費・維持管理費をまかなったりしているのです。

    • 住宅業界の常識は、社会の非常識である

      携帯電話会社の通話料 0円の広告が物議を醸しました。単なるローコスト住宅の価格表示も同じではないでしょうか。
      他にも打ち合わせをするのはモデルハウスや事務所、構造現場などには案内もしない。何か見せられない理由でもあるのでしょうか?

      自分の子供たちに胸を張って言える業界にしたい。できることなら娘や息子にもこの業界を目指してもらいたい、そう思うようになり私は業界の常識と闘う決意をしました。 きれい事ばかりを言うつもりはありません。今まで他人には内緒にしていたことも包み隠さずここでお話しするつもりです。だから少しだけお時間をいただきこの先をお読み下さい。

  • Message.2

    どうして高給取りのサラリーマンを辞めて
    田舎の工務店社長になったのか

    よくある話と言われればそれまでですが、私のことと当社のことをお話しさせてください。興味がなければ読み飛ばしてくださって結構です。
    しかし、当社の家づくりの考え方において大切なことなのでお読みいただければ幸いです。
    • 激動の創業期

      <創業者 金原義雄 事務所にて 昭和35年頃>

      当社を創業したのは、私の父でした。
      中学をでてしばらく勝浦の山奥で大工の修行をしていたそうです。
      そこで厳しい親方から家づくりのいろはを
      徹底的に身体が覚えるまでしごかれたそうです。

      一人前になってからは徳島市内の建設会社で働いていましたが、
      その会社が倒産したので若くして独立する羽目になったそうです。
      建築士の資格を取り、自宅の一角を事務所にして当社は産声を上げました。

    • 貧しくとも楽しい団らん

      <母、父、抱っこされているのが私、下の姉、上の姉>

      創業期は仕事もなく、あっても下請け仕事。
      でもどんな小さな仕事もすぐ飛んでいき
      一生懸命お施主様が喜んでくださるよう力を尽くしたそうです。
      はっきり言って裕福とは程遠い生活だったそうです。
      しかし、家族5人が肩寄せ合って生きていたそんな時代でした。

    • 高度経済成長時代

      <棟上げ後、お施主様の手料理に囲まれて(昭和40年代後半)>

      いろいろな人たちの力添えで仕事も順調。
      あまりに忙しいので他の会社で若くして棟梁として活躍していた実の弟
      (前当社取締役名誉会長/初代棟梁・平成21年1月現役で他界)を招き入れ、
      その下の弟も弟子入りさせました。
      3人兄弟、力を合わせて会社を盛りたてていました。
      その間友人や取引先からの紹介や住宅供給公社や県や市の公共工事等もあり
      順調に実績を積み上げていきました。

      いくら仕事が忙しくとも、好きな野球はやめられません。
      社会人野球徳島県大会で優勝の実績あり (職人や取引先との混成チーム)
      前列一番右側が父、その左隣が弟である初代棟梁

    • 人生の岐路

      昭和から平成にかけて父の会社は業績も順調でしたが、事業に対するやる気はほとんどなくしていました。
      そのわけは後ほど述べるとして、日本経済はバブルの頂点に向かって突き進んでいたその時私は大学を卒業して、大手の損害保険会社へ就職を決めました。

      初めは京都支店に配属され厳しいながらも仕事を覚えていき、社内で知り合った女性と結婚しました。
      程なく長女が生まれ、ささやかな小さな家庭を築き順風満帆の人生を歩んでいました。その後名古屋へ転勤となり、大企業相手の部署へと異動となりました。
      大手自動車メーカー、都市銀行やハウスメーカーの担当となり毎日が戦争のような忙しさでした。
      ほとんど毎日帰宅は午前さま。家族との接点もなく、私が知らない間に長女ははいはいを覚え、つかまり立ちをして歩けるようになっていました。

      ある日徳島の実家に帰ったとき、父の後ろ姿を見て「何かおかしい」そう感じずにはいられませんでした。
      腰のベルトを思いっきり絞りズボンがまるで巾着のように見えました。わりと体格のいい父が激ヤセしているのでした。

      悪い予感は残念ながら当たってしまい、体調不良を訴えて父は入院をしてしまいました。
      医者嫌いな父が自ら病院へ行くと言ったのですから相当つらかったのだと思います。長い期間検査を繰り返し我々家族に突きつけられた現実は
      「S状結腸ガン、長くて5年ぐらいでしょう」。先生の言葉を聞いたとき、わたしは信じられず「誰の話をしているのだろう」と耳を疑ってしまいました。
      父の会社の大工たちも家族のようなものですから、一緒に病院でこの話を聞いていました。
      一様に顔がこわばり、「もうこの会社は終わりだ」と当時みんなは思ったそうです。
      会社は、父一人で営業、現場監督と経理を全て兼務していてあとはみな大工という構成でした。
      職人を除いて、一人で工事高が年間2億円を超えていたのですから今思うと相当忙しかったのだなと感心してしまいます。
      でも、それは完全な父のワンマン経営であり、万が一父が居なくなると会社そのものがなくなるということを意味します。だから大工たちの不安は当然でした。

    • 出生の秘密

      「あんたが生まれたときのことを思い出すよ。」ある大工が、私に語りかけてきました。
      「男の子が生まれたと分かった時、当時木造だった日赤病院の廊下の端から端まで、万歳しながら走り回っていたよ、お父さんは。」
      その大工は涙ぐんで話し続けました。
      「生まれる何年も前から、あんたの名前は決まっていたのだよ。家を『建てる』とか建築家の『建』とお父さんの名前の一字をとったのがあんたの名前や。」
      それは当然そうだろうな、と思っていましたが何年も前から決まっていたというのは初耳でした。

      歳の近い姉と私の年齢差が9歳も離れていた。その間、父は会社を軌道に乗せることに注力していたそうです。そして、業績も伸び安定してきたとき私は生まれました。自分の後を託する意味で自分の仕事と名前の一字をとって命名したそうです。それほど私への期待は、生まれる前から大きかったそうです。

      しかし、父の期待を裏切り私は大学を卒業すると損害保険会社へ就職してしまいました。
      父は、そのことに対して反対も苦言も何も言わず「そうか」とひと言受話器の向こうでつぶやいただけでした。時代はバブルの絶頂期に向かって上り坂。
      ブランド物のスーツを着た都会のサラリーマンに地方出身の私は憧れていました。
      しかも誰もが知っている大企業相手に大きなプロジェクトを仕掛けていく、そんな仕事をかっこいいと思っていたのです。
      だから、田舎の工務店など何の魅力も感じませんでした。いつも日に焼けて真っ黒な顔、汚れた作業服、ガサガサと荒れた手、どれ一つ魅力的に映る要素は当時の私にはありませんでした。言葉を換えれば、何も分かっていない私は父のようになりたくない、つまりバカにしていたのかもしれません。

      父は、事業に対するやる気を失い下請け仕事ばかりするようになっていました。
      跡継ぎを失ってしまい、自分一代でこの会社を他人に譲るか廃業するかどちらかの道しか選択肢がないのですから。

    • 脱サラ決断

      父の残された余命を聞いたとき、私の考えは180度変わりました。
      私が幼い頃、布おむつとほ乳瓶を抱えて私を連れて現場を廻っていた父の命がなくなると同時に会社も廃業することになりかねない。私は覚悟を決めました。
      自分の存在の原点を守りたいと思う気持ちがはっきりと自覚できたのです。
      それと大企業相手の仕事よりもっと地域に密着した、人間関係を大切にした仕事が自分に向いているのではないかと思い会社を退職することを決意しました。
      迷惑をできる限り掛けないよう、充分な引き継ぎ期間を設けて退職しました。
      その時、私の田舎へ黙ってついてきてくれる家内には感謝すると同時にきっと長女ともうすぐ生まれてくる2番目の子供共々家族を幸せにしなければいけないという決意と自信はありました。5年もあればきっと大丈夫。当時まさかこの自信が、一瞬のうちに粉々に打ち砕かれるとは夢にも思っていませんでした。

    • 最後の言葉

      父は、万に一つの可能性に託し手術に臨みました。結果手のほどこしようがない状況でした。家族で相談して末期ガンであることを告知するのは辞めました。
      しかし身体を少しでも養生してもらいたかったのでガンを取り除くことにはできたが、再発しないために決められた通り通院をしなければならないことと医師の指示を守らなければならないことを父に言いました。
      自分がガンであることにショックを受けていたようですが、それでも病院嫌いで有名だった父が約束を守り、まじめに治療と検査を優先してくれているのが救いでした。

      ある日父の容態が急変、病院に担ぎ込まれたときは、もう言葉もほとんど聞き取れないぐらい弱っていました。
      院長先生から「長くてあと一週間」と宣告された時は、我々家族は言葉を失ってしまいました。
      「5年ぐらい生きられるのではなかったのか、どうして1年も経っていないのに」。私は、悲しみとこれからのことを考えると恐怖で身が縮まる思いでした。

      私は父に語りかけました、「最後に会いたい人は誰かいるのか?」と。「縁起でもないことを言うな!」と父が私を一喝しました。

      そして、私に「頼んまっせ。頼んまっせ」と精一杯の力で語りました。

      それが、父が最後に発した言葉でした。何をすればいいのか、私は父に尋ねましたが何も返ってきませんでした。

      翌日父は他界しました。
      「何を頼むのか?」その答えは結局聞くことはできませんでした。

    • 挫折と誓い

      お通夜・告別式、たんたんとやるべき行事は進んでいきます。悲しむ暇はありません。それが終わると取引先へのあいさつ廻り、役所への各種変更届提出、
      お客様へのあいさつなど一週間ぐらいの日々は記憶に残らないほど早く過ぎ去っていきました。

      ただ、事務所の机の上には、しかかりの見積書が置いてあり、その横には父の作業着が掛けられていました。
      それを見たとき初めて本当に父がこの世から居なくなったと自覚できました。

      父の死後、会社の負担を軽くしようと年配の大工2人が去りました。「もういい年だし、わしらも引退や」とさわやかに言ってくれました。
      私は引き留める術がなかった。いや、職人たちを食わしていく自信がなかったと言う方が正解でしょう。

      日々の仕事は、ハウスメーカーやゼネコンの下請け仕事ばかりでした。腕の良い大工を先代が育てていてくれたお蔭で下請け仕事に困ることはありませんでした。
      昼間は、大工と一緒に現場で汗を流し、夕方から建築の学校へ通い、夜は事務所で見積もりをしたり施工図を書いたりでほとんど睡眠時間も取れませんでした。
      毎日毎日3時間ほどの睡眠で一度足場からフラフラっと落ちそうになったとき、間一髪のところで大工に助けられた事があります。ほんとうにあぶなかったです。
      あのまま落ちていたら、たぶん・・・と思うと今でも足がすくみます。

      下請け仕事は立場が弱いですから、真っ先に金額を叩かれます。金融機関のサラリーマン時代には、生活に困るということなど夢にも思いませんでした。
      工務店の社長は、まず会社のことそして職人のことを考えなければなりません。自分のことは一番後回しです。

      収入が以前の3分の1いえ4分の1になった時、とうとう家内の心は破綻してしまったのです。
      慣れない土地でまだ小さな長女と生まれたばかりの次女を抱えて、毎晩泣いていたのです。
      私も毎日仕事で帰りが遅く、休日も取れない日々が続き夫婦の会話そのものがなかったのが原因かもしれません。

      ある日あまりに家内が泣くものですから「不幸なのはおまえだけじゃない」、「いえ、私が世界で一番不幸な女よ!」と言い返され時、
      ついカーッとなって「うるさい!」と怒鳴ってしまいました。すると今度は、幼い長女が泣き始めました。ほんとうに自分が情けなくなりました。

      「妻と子供たちのために」来る日も来る日も仕事と勉強をほとんど寝ずにがんばりました。でも事態は悪化する一方で会社も家庭も崩壊寸前まで来ていました。
      そして、私自身の身体にも異変を感じてきました。朝起きられなくなったのです。
      事務所のパソコンの前に座っても、キーボードに指を置くことすらできなくなってしまったのです。「うつ」と診断されました。

      告白しますが、一度あまりに厳しいので材料代を浮かせるため規定のものより品質が劣るものを使用したことがありました。
      元請けの監督さんなんか、日々進歩し変わっていく住宅の材料や規定のことについて行けていない。大手メーカーもそれが現実です。

      ある日、その現場へお施主様が差し入れを持って現れたのです。私の子供よりひとつぐらい年長の女の子でした。
      「こんにちは」その子は私に舌っ足らずな言葉であいさつをしてくれました。
      まだ若いお施主様ご夫婦もニコニコ終始笑顔で、自分たちの「幸福の城」を長い時間ご覧になっていました。

      お帰りになった後で私の心は張り裂けんばかりに痛みました。あの若いご夫婦と女の子の「幸福の城」を私の独りよがりの思いがぶち壊していたのです。
      プライドを捨てた仕事がどれほどおぞましいものなのか、
      自分の子供たちに胸を張って言えない仕事など本当にクソだと自己嫌悪に陥り情けない思いが込み上げてきました。

      すぐ大工に指示し、全部の床板をまくり、下地をやり代えました。そうしないとこの仕事を、この会社を、これ以上続けていく自信が湧いてこなかったのです。
      もちろんその時はゼニ金の問題ではなく、使命感とプライド、大げさに言えば「自分の生まれてきた原点」に立ち返るべきだと思ったのです。

      それと、ここまで追い詰められた下請け仕事はもう辞めよう。
      そして当社の長年養ってきた伝統の匠の技と下請け時代と県外の同業者から教えていただいた合理的な工法を駆使し圧倒的に高性能な
      「子育て世代のための高性能住宅」を地域に広めようと決意しました。
      そして二度と手抜きのようなバカなことはしないそう自分と社員と家族に誓いました。

    • 子育て世代が建てられる家。そして家族の団らんを育む家が必要だと考えています

      そこで世に送り出したのが、「ラッフルズホーム」です。安かろう悪かろうだけのローコスト住宅ではなく、
      「家族の絆を大切にする家づくり」、「家族団らんを育む家」ということをコンセプトにしています。子育て世代は確かに無駄な部分を省いて合理化は重要です。
      本当に家が必要なのは子供が育ち、巣立っていくまでの間です。この一番色々なことにお金がかかる時期でも、家を建てられるようにしたい。
      私も子育て世代ですので本当にそう思っています。

      結局、私が一番苦しいとき救ってくれたのは、家内であり子供たちの笑顔でした。子供たちが寝静まったときにいつも帰宅していました。
      その寝顔を見るだけで充分幸福な気分になりました。そして、「明日もがんばろう」そう思えるのでした。

      私は考えました、「家族が幸福になる家」それは「家族団らんを育む家」だと。
      狭いマンションで家族がいつも一緒に食べて、寝て、話しをして時間を過ごしていたのに、
      家を建てた途端、子供たちは個室で過ごし、親子・兄弟・姉妹の絆が疎遠になったということをよく聞きます。

      私たちは、お客様の要望を聞きつつ設計段階から「家族の絆」、「団らん」ということを念頭に置いています。
      なぜなら、私自身が家族崩壊の危機を感じ悩んだことがあるからです。何のために家を建てるのか、その原点を忘れてはならないのです。

      しかし、価格ばかりに目がいってしまい、健康、快適性や生活に楽しさを省いてしまっては、高額なマイホームを持つ意味がありません。
      そして、子供たちを心身共に健善に育てる場所であり、家族みんなが愛着を持てる「心のふるさと」でなければあなたの生命を担保に(住宅ローンには生命保険が担保されています)家を建てる価値はないのです。

      現在大きな社会問題になっている、「いじめ」や「若年者の自殺」など、親としてこれ程悲しいことはない事件。
      家づくりがその解決の一助とならないか、これが当社の「家族団らんを育む家」の根底にあるのです。

      どんな時代になろうとも、
      「この世の中に、住宅は高いものだと諦めている人がひとりでもいる限り、私は住宅業界の誤った常識と戦い続ける。全ての人に夢を与えて生きたい。」

      今、長年抱えてきた思いをそのままに、魂を込めてこの仕事をしています。

  • Message.3

    ラッフルズホームについて

    • 無駄な経費を削減すれば住宅の価格は30%以上安くなります

      でも、本当にいい家が安く建つなんてことあるの? そう思われるかもしれません。
      その答えは、私たちとハウスメーカーの違いを比べると分かります。私たちとハウスメーカーの違いは、

      1.最近では珍しいのですが、先代からの伝統で、外注ではなく棟梁・大工の会社です。職人を雇用し本当の意味での直接施工で中間マージンを極限までカット。
      2.全員社員です、巨大で立派な本社にて会議ばかりしている、1年で数千万円以上も経費がかかる役員はいません。
      3.年間、数億単位のお金がかかる総合展示場にも出展していません。変わりにお施主様にご協力いただいて、これから人が住む家を見ていただいています。
      4.当社で家を建ててくださる方の実に73.1%は、既存のお客様からのご紹介です。ムダな販促費を掛けません。
      5.バブル期に建売や宅地分譲用の土地を抱えて、その借金に年間何千万円もの利息がかかります。その支払いを家を建てるお客様から負担させることもありません。

    • もし、あなたが真剣に家づくりを考えているなら知って欲しいことがあります

      そして、もしあなたが真剣に家づくりを考えているのなら、私のところで建てなくても、ひとつだけお願いしたいことがあります。
      それは、お客様が実際に住む家を最低3社は見ていただきたいということです。
      展示場のような現実離れした家ではなく、実際に人が住む家、生活のにおいのする家を見てください。
      建築中の現場を見せてもらうのでもかまいません。どんな方法でも3社は見て欲しいのです。
      自分の業界として恥ずかしいことですが、住宅業界は、広告一つとってもルールが無く、それぞれの住宅会社のモラルに任されているため悪習慣がたくさんあります。
      たくさんの人にたくさんの質問をして、それが嘘か本当かをまず、見極められるようになって欲しいのです。
      人の直感ほど、信用できるものはないのです。だから、実際の現場を見て欲しい、そう思います。
      詳しくはあなたとお会いしたとき話しますが、坪20万円代の家が、建ててみたら坪50万円になっている。そんな話も日常茶飯事です。
      また、借りられるだけ借りてしまって、家を建てたために、毎月の支払いに追われ、土日もなく働き、
      結局大切な家族との時間がなくなってしまった・・・、ということも多いです。
      ローンは借りられるだけでなく、返せるだけ借りるというのが基本です。家は建てることで家族が幸せになれなければ、意味がありません。
      家は、家族のために建てる、その気持ちがあなたの心にある限り、家づくりは成功します。ぜひ、あなたの家づくりが成功することを祈っております。

  • Message.4

    追伸

    もし、私たちの「ムダコストのない良い家」に興味をもってくださった場合は、
    いきなりでもかまいませんから、現場を覗いていってください。
    当社の棟梁が一生懸命仕事をしています。隅から隅までご覧になってください。
    また、現場見学会にもいらしてください。
    家づくりに役立つ情報を最低ひとつはお持ち帰りいただきます。
    決して押し売りはいたしませんので、ご安心ください。
    押し売りをした社員はクビだと、堅く申しつけているのでご安心ください。

    私たち地元の工務店は、転勤も事業所閉鎖もありません。
    一生、この土地で仕事をし続けます。家づくりはゴールではなく、スタートです。
    お客様が長い間ローンを払いながら家と付き合っていくように、
    私たちもお客様の家に何かあればスグに駆けつけられるように、
    長いお付き合いをさせて頂きながら、一生この地で過ごしていきます。
    私はダメな亭主であり父親でした。それを助けてくれた、家族と社員たちに感謝しています。
    妻も子供たちも友人も先生や先輩もそして天国から父も母も私の仕事ぶりを見ています。
    決して恥ずかしいことはできません。
    そんなパートナーとして、私たちがふさわしいかどうか、
    あなたの目で厳しく、私や、従業員、棟梁たちを試していただければと思います。

    本当にこれが最後ですが、父が最後に私に何を頼もうとしたのか、今はっきりと分かります。
    「家族(当時まだ母は健在でした)であり、社員であり、
    会社でありそしてお客様のこと」だと理解できました。
    65年を過ぎた会社の「社会的信用」を私に託したのだと思います。
    代表取締役 金原建雄

Contact

お問い合わせ

定休日 水曜日 / 第2・第4火曜日